大正まで醤油や味噌も使えない貧乏があった
(現代も円安で物価が上がり昔の時代にもどってゆく)
(鹿島町の女性)私が話をうかがったのは平成三年で満95歳の高齢にもかかわらずかくしゃくとしてをり、記憶もはっきりしていた。
大正7年のとき二十三歳であり二十歳の
時、原町北泉のより嫁に来た。士族同士の結婚だった。
耕作地は自作地一町五反であり反あたり六俵の収穫があった
わりと当時としては裕福だった
夫は駄賃とりを一生懸命やりまた飯館村にたる引きに入れ大きいカツオは五本ずつ十本を馬にかけて運んだ
お正月の料理はもち、塩引きが最高の料理であった
電気などなくランプの暮らしでホヤみがきが嫁の仕事でありしょっちゅうこわれて町へそっと金をわたして町へ行ったとき買ってきてもらい交換した
(男性)
当時の反収は5俵から六俵くらいで小作料は二俵半だった。
当時の農作業などの日当は米三升が標準だった。
家計は子だくさんの上、いっぱい食べたので一日二升食べ、残り一升で暮らすのは大変だった。中以上の裕福な家では味噌を使い味噌がないときは塩でまにあわせた。
食用油、砂糖などは贅沢品で使えなかった。
収穫は反六俵で出に荷は駄賃取りがいてその人に頼み馬に二俵つけて町に売った
黒砂糖をこごりで買って砕いて使用、白砂糖はお正月に少し食べるくらいで醤油もほとんど使用しない、正月用だった、小作でないので他の人より楽であった
研究紀要二(1994)ー米騒動の研究
そもそも醤油が使えなかったら素朴な疑問として料理自体できないのではないか?
明治になっても大正でも醤油が使えないとなることが全くイメージできなくなっている。もちろん味噌も満足に使えないとなると味噌汁さえ作れないことになる。
明治以降もそうだったとすると江戸時代はどうなっていたのか?
それ以上に貧しかったとなるのとどんな暮らしになっていたのか?
反当たり5俵くらいとなると今は十俵だから倍になっている。この違いも大きいだろう。
だから米あまりになる。
それから運搬は馬でありもともと江戸時代から馬で運搬していた、だから駄賃という言葉が生まれたのである。
行き掛けの駄賃」とは、「ある事をするついでに、別の事をする」または、「ついでにほかの事をして、利益を得る」と言う意味である。特に"駄賃"には、"一寸した手間賃"というニアンスが強く、大人が子供を使いに出す時の手法であった。
農作業でも他の家の手伝いで手間賃をそのつどもらっていた。これは別に定期的にないからこんなふうになった。
飯館村に魚を運んでいたというのは興味深い、それは江戸時代からの塩の道の継続だけど明治以降は塩の道はなくなり八沢浦の峠の道が作られていた。
川俣まで天秤棒をかついで屋形から鰻を売りに行ったという話には驚いた。
当時の貧乏は今の暮らしからは想像できない極貧状態である。小作が多いから余計にそうなる。だから小作だというときそのこと自体が常に奴隷のようなものとしてイメージされたかもしれない、今日の派遣とかともにている。ただ食べ物に関しては貧乏でもさほど変わりないのが現代である。
士族同士の結婚とか書いてあるのもその頃まだ江戸時代の継続があり士族と平民は分かれていた。兵隊手帳にも士族と平民と記されていたのである。
自分の母親は九十九歳で大正生まれだけどその前となるとさらに貧乏になる。
だから製糸工場で女性が働くようになったとき月給ももらったのだからそれなり女性の収入も生まれたのだからその当時としては一つの進歩であり女性の地位の向上にもつながっていた。だから製糸工場に働く女性に対して反発があった。
戦後十年もこうした戦前からの生活の継続があった。それは江戸時代の継続でもあった。まず炭が燃料になっていたことがそうだった。あとはタンス一つとか飯台一つくらいしか家には物ののない時代だった。
でも不思議なのは醤油はあったし味噌汁もあったし塩引きは好物だった。
塩引きはそれほど贅沢ではなかった。日常的に食べていた。
ただ卵は贅沢であり食べていない、農家では鶏を飼っていたから食べていた。
だから自分の家で店をはじめたとき卵買いに行かされたのである。
明治以降の運搬は馬であり車などない、だからこそどこでも農家では馬を飼っていたのである。馬は農耕にも運搬にも欠かせないものとしてあったのだ。
それにしても大正時代はランプだったのか?ランプの明かりで粗末な家で暮らしていた。これも不思議である。
でもランプでも江戸時代にはなかった。江戸時代は蝋燭だったのである。ランプはそれより発達して文明の利器だったのである。
戦後十年も裸電球一つだったけど電気は通っていたのである。大正時代は電気もないということがあった。
電車も電気ではない、だから蒸気機関車だったのである。これも今からふりかえるは錯覚している。
汽車は死語になった。汽車は蒸気機関車のことだったからである。電車は電気で走るから電車なのである。
常に今と昔は何か錯覚してみる。それが江戸時代あたりになると余計にそうなる。
現代からは想像もできないから何か誤解して錯覚してみるようになるのである。
ホヤは一晩で煤けてしまい、日常の手入れは大変だったようです。普及するにつれて、明るい五分芯は部屋に、三分芯は台所で、厠へ行くときには豆ランプを持ってなどという使い分けもあったようですが、普通の家はランプは一つしかありませんでした。
町にはランプ商、ホヤ商、油商という商売が生まれました。特に油商は行商も多く、家々を廻って桝で量り売りをしていました。
ランプ屋が街にあった。種油とは菜種油とか椿油とかだろう。それを売り歩く人もいた
日本は今曲がり角に来ている。円安とかになり経済も変わる、物価が高くなったと思う。魚でも倍になっている。何でも二割くらい高く感じる。この物価高は貨幣の価値を低くする。貯金していても金の価値はかなり下がってゆく、だから老人が金をもっていてもその価値はかなり下がってしまったのである。
でも円高と違い円安は物の価値をあげる、日本で生産するものが安くなるから外国に売りやすくなる。日本は先進国から後進国へ逆戻りする。輸入するものが馬鹿高くなりバナナでも高くなるかもしれない、それは戦後十年でもそうだった。バナナは高級品で買えなかった。仙台に売っていたが自分の家では家族が病気になったとき仙台まで買いに行った。なんかそういう時代に逆戻りするかもしれない。
一方で地元で国内でとれるものは海外から入るものより買いやすくなることもある。
ただ野菜も高いし一般的に食料も高い、つまり貧乏人だと底辺だとさらに貧乏感が増すし金持ちでも株などに投資して上がらないと金をもっていてもその金の価値が半分とかに下がってくるようになる。
それがまだ実感しにくいが金の価値が下がってきているかことは確かである。
今まで百円で買っていたものが百五十円の感覚になるのも近い、円安とはそういうことである。
これまでの物価安は後進国が安い労働力で物を作りそれを輸入していたから安かった。
これからはむしろ自国で生産した方がいいとなる。海外で生産しても円安だと割安感がなくなるからである。
日本の農産物にとってはいいのかもしれない、何でも物が高くなり紙幣より金より物の価値が高くなるのである。
だからいくら老人が金をもっていてもその金は相当に目減りしている。
物の価値が高くなるとともに賃金も高くなるから労働する人の価値が高くなる。
金をもっているだけではその価値がなくなる。インフレになるとそうなる。
円安は金を持っている老人には不利である。若者にはいいのだろう。
ということはアベノミックスの狙いはあたったのかともなる。
ただ物価高でも賃金が上がらないと貧乏人にもこれは答える。
ともかくこれからは江戸時代のような質素倹約の時代になる、贅沢な消費社会は終わる。物の価値が高くなり贅沢できない、物を粗末にできない、なんとか工夫して料理でも工夫しけ安上がりにしないとやっていけなくなる。
それでも醤油や味噌すら使えない時代が大正まであったのだからふりかえればそれよりはずっと恵まれている。でも高度成長からバブルからそうした日本の繁栄の時代は終わったのである。だから高度成長時代にもどったりまたもう一度復活することはない
質素倹約でありそれはモラル的にはいい方向に向かうということがある。
ただこれまでの贅沢な消費から生活を落としてゆくことはかなり苦痛になる。
ただそういうことが否応なく強いられる。日本の成長贅沢の時代は終わったのである。