2018年12月01日

風で電車が遅れる季節に


風で電車が遅れる季節に

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電車が風で遅れるようになった、それでとまどう人がいる
すると若い女性は遅れたと言ってどうこうとか教えていたら
私は知っているからいいわとか待っている人の前で言う
前にもそういう人はいた、地元の人はなれているから知っている
またスマホでも見て遅れが連絡されているのもわかる人がいる
でもみんなそうではない

駅に来た若い女性でもわからない人がいた
それは何か電車がどうなっているのか見にきたのかもしれない
それで説明したらわかったとなる
地元の人でもわからない人はいるし説明するとわかる人もいる

だから自分は知っているからというのは勝手なのである
その人は他の人を考えないのである
こういうふうにコミ二ケーションできない人はいる
何か話しかけても答えない人はいる
今はそういう人が多くなっているのかもしれない

若い人で遠くから来た人でも話せる人は話せる
その人は仕事できたけど津波のことを知りたかった
海は近いですかと聞いてきたからすぐ近くの高架橋に上れば見えると教えた
海は松原がなくなくり直接見えるようになったからである
その人は長崎の人だった、若いけどはきはきして受け答えが良かった

人にもいろいろだからこれはどうにもならない、別に聞かれなければ答える必要がない
でも遅れてみんなとまどうことがありそれを聞いた時、知っているからいいわとかいうのは身勝手なのである、他の人のことを考えていないのである
そこでまた私自身がここで何をしているのかということを認められていないからだともなる

つまり自分はJRからも客から認められないということがある、ボランティアには何かそういうことがある、ただ組織的にnpoとかの一員とかでやれば違っている
そういう人は報酬をちょんともらっているからだ
ただそうなると定期的に仕事をしないとだめになるからできない

いづれにしろこれからは風で必ず遅れる季節である
これがこれからの鉄道利用と駅の一番の問題なのである
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タグ:電車の遅れ

みちのくの北風と荒野(詩) (みちのくの場の働きは何なのか?)


みちのくの北風と荒野(詩)

(みちのくの場の働きは何なのか?)


ごうごうと北風がまた唸り吹く
木の葉が舞い散る
それは荒野の声だ
みちのくに北風がまた唸り吹く
ごうごうと唸り吹く
その時森の樹々は強く結び合う
巌はさらに威厳まして主となり
みちのくは遠く閉ざされる
みちのくにはなお荒野がある
ごうごう北風がまた唸る
乱雑と騒擾の世に疲れし者よ
都塵を離れて荒野の声を聞け!
聖なる者がここに住む
荒野にこそ神が棲むものなれば・・・・

急にごうごうと朝から北風が唸り吹いた、それはいつも聞いているものだが年年に違って聞こえるのも不思議である
何か見るにしても同じものを見ていても違って見える
年齢によって心境が変わるからだともなる
私の場合は家族がみんな死んで無常をひしひしと感じたこともあり北風は一段とすさまじいものに聞こえた

風土という時、風と土なのである
風の感じ方はその土地土地によって違う、これはなかなか旅してもわからないのだ
まず現代の旅だと車とか電車でも風は感じないからである
風がどういうふうに吹いてくるのか感じることがむずかしいのだ
ここでは海から吹いてくる東風と山から吹いてくる西風と北風に分かれる、でも会津のような山に囲まれたところではどういう風が吹くのかわからないのである

例えばみちのくというとき一つの大きな地域であり今でもそうである、ここには荒野がまだある、みちのくとは日本では辺境であったから荒野がある
ただ仙台辺りになると繁華になるから荒野を感じなくなる
荒野とか自然がないところに宗教もなかった
だから東京とには宗教はありえない、カルト宗教とかなるとそれは宗教ではない、労働組合と経済活動団体である、宗教の神秘性とか聖なるものとか皆無である
どろどろとした人間の欲望がそこに噴き出している

宗教がどうして生まれたのか?
釈迦は洞窟にこもり一神教は砂漠で生まれたことを見ればかる
荒野から生まれたのである、モーゼはシナイ山に上り神の啓示を聞いた、山伏とかの山岳宗教だってそうである
何かいかがわしいように見えても自然の中で六根清浄を求めたのである
今の宗教には全くそういうものがない、ただ組合活動であり経済活動であり世俗の欲を増大させている場だから変なのである

みちのくはまだ荒野があり何か日本でも異質な場になっていた
つまり権力闘争とあまり関係しなかった
だからみちのくは常に敗者が逃れて敗者の場所にもなっていた
強力な権力を持ちえなかったのである
だがみちのくという場は荒野がありそこで西では確かに繁栄したが堕落した
宗教の場も金儲けの場になった、観光の場とか堕落した場なのである

日本をみるとやはりみちのくと北海道は異質だと思う
沖縄も外国になるがみちのくと北海道は感覚的に何か自然でも違っている
北海道は空気まで違うと感じる、原自然がある場なのである
だからみちのくと北海道は原生の心を養成する場なのである
ただ経済的には苦しいということがありそこが問題であり原発事故が起きた

それは間違っていた、みちのくという場はそうした場ではない
原発などは誘致すべきではなかった、本来の場は自然の中で荒野の中で野生の声を神の声を聞く場所だったのである
もちろんあまりにも戦前のように貧乏だと精神も醸成されない
ほどほどのところで質素に荒野の声を聞く場所としてあるべきだったのである

結局なぜこれほど人は働かねばならないのか?
それは余分なもの余計なものを作りすぎているのである
そのために人手不足となる、別に食堂とかで働く人がいないとしたら食堂でもあればいいがそんなになくても間に合うということもある
余計なものがありすぎるとそれだけ労働力が必要になる
オリンピックなどでも本来はするべきではない
なぜならそのためにまた人手が必要であり人手不足になるからだ
なんでも経済成長が果たしていいのかどうか?
それも見直される時が来たのである
それは多数の声とはならないからどうにもならないとはなる

2018年12月02日

樅の木(fir tree)ーabstract paintaing


樅の木(fir tree)ーabstract paintaing


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drizzling rain [a shower] (in late autumn and early winter).

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冬の日の俳句と短歌 (深野のユッサから大原ー橲原ー飯館村へ―ユッサの庭は貧弱すぎる)


冬の日の俳句と短歌

(深野のユッサから大原ー橲原ー飯館村へ―ユッサの庭は貧弱すぎる)

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舞い去りぬ今日も一羽の冬の蝶

道の辺に南無阿弥陀仏木の葉散る

(深野ー大原)

深野に地元の温泉冬紅葉

集いける地元の温泉木の葉散る

大原やや大根干しぬ家古りぬ

冬紅葉水面に写し川の奥

(飯館村)

離れじや落葉に埋もれ四人石

冬日没る遠山の影刻むかな

満天に漏らさず輝く冬銀河

心澄みきらめき増ゆる冬銀河

冬銀河千、万の星秘めにけり

(真野川)

大岩のここに隠され冬の星

闇深く隠さる岩や冬の星


大原に住みにし人の家なほもありしも住まず冬の日暮れぬ

大原に眠れる人の墓あわれここに生きしと冬のくれかな

橲原の奥にし家や隠されて我が知らじかな冬の日暮れぬ


ぬばたまの世のけゆくや大倉に冬の灯二三誰が住めるかも

(大原)

病院に大原語るその人の思いはここに短き日暮る

大原や子は街に出て家継がず残れる家や冬の日暮れぬ

(飯館)

村人の豊作願ふ井戸のあれ帰らぬ人やまた年暮れぬ

庭荒れて空家となりて久しかな帰らぬ人や冬の日暮れぬ

(我が家)

姉と母待ちにしあれや亡きにしをありしと思ふ冬の夜かな

我が家に帰り来たるも一人かななぐさむ人なく冬の夜ふけぬ

我が家に家族のなしも我が家やよすがとすべし冬の夜ふけぬ

(相馬市)

五本松二本欠けしもなおありや冬田の暮れて道の駅かな




天気がいいので深野(ふこうの)から橲原渓谷を行き飯館村までトンネルを通って大倉を通り帰ってきた、橲原渓谷は通行止めが解除されていた

深野のユッサはこの辺では唯一の温泉となるけどそれが本物なのかどうかわからない
一応温泉にはなっている、でも八〇〇円は高いが温泉ならこの辺ではないのだから価値があり高いともならない
ただあそこの問題は庭は貧弱すぎるのである、それはただ石を並べただけでありがっかりする、あまりにも貧弱なのである

普通のありふれた庭より貧弱なのである、個人の庭より人が集まる場所の庭が貧弱なのはがっかりする、まず個人の庭でも目を見張るものがいくらでもある
最近は船主の人が豪華な庭を作っている、それは軽く一千万以上の庭かもしれない
石だけで相当な値段である、なぜなら見ただけでほれぼれするような巨石だからである
私は石が好きだからしげしげと他人の庭の石を見ている
それで何か写真をとってとがめられたことがある
それに比べたらユッサの庭はあまりにも貧弱である

私は今旅行すらならいい庭がある旅館とかホテルに泊まりたい、そういう宿には泊まったことがないからだ、日本の文化は庭にある、だから京都は庭を見て歩くことになるからだなぜいい庭を作らないのか?予算の関係なのか?
今の時代はハードは整備された、それでこれからの経済は感性の時代だといういう人がいる、それはハードは建物であるがそれにほどこす装飾などがソフトになる
それから実は人もソフトなのである、もてなしとかソフトだからである
そういう時代の変化がある、だから人が集まる場所であの庭はあまりにも貧弱である
私がしたいことは庭作りだった、でも私の家の庭は狭すぎてできなかった

温泉という時長野県のアルプスに近い所の岩風呂の露天風呂は貫禄があった
大きな岩でありその岩から何か本当に英気となるものがにじみでていた感じになる
残念ながら浜通りにはあのような貫禄のある温泉はない
何か岩に癒されるとかなる、そういうことは本当にあると思う

深野から大原に行き大原では私立病院で一緒だったS家の家を見た
そこには息子は住まない、街の方に家をもって住んでいるからである
一か月いて大原の話をその人はした、暇だだからその話を聞いて興味をもったのである
でもそのあとすぐ死んでしまったのである
それで今でも大原を通るとその人のことを思い出すのである

橲原渓谷の奥の方に冬紅葉が美しかった、それが水面に映っていた
そこから飯館に向かった、トンネルを歩いた、あそこは幅が狭く歩く他ない
二キロくらいあるらしいがもっと長く感じた
飯館は坂がきつくて簡単に行けない、今回もひさしぶりである

トンネルを出たら日が暮れかかっていた、かなたの山に安達太良なのか冬の日が輝き没するところだった、までい館で働いていた人は地元の人ではなかった
年配の女性の人だったが地元の人ではない、それも変だと思った
飯館村はまず一五パーセントと帰ったとか言っているけど通りは誰も住んでいない
草野ですらそうなのだからもう村が崩壊したという感じになる

途中で石が四つくらい落葉に埋もれていたので四人石と名付けたがそもそも人が住んでいなければそういう石すら活きてこない、人が住んでいて自然も活きるということがある
人が住んでいなければただの石であり名前もないとなるからだ
小高と比べると飯館村は帰った人が本当に少ない、浪江でもそうである
小高は街でも帰っている人が増え店も増えているとかある
飯館村はもともと広いからもう崩壊したという感じになる
作見の井戸でももう人が住まないと生業が消失すると死んだものとなる
なぜなら人がいないければ農業もしていなければ誰も豊作を祈るということもなくなるからだ、その井戸を見て豊作を占なったということもなくなるからだ

大倉も真っ暗だった、二三灯が見えたから誰かが住んでいるが真っ暗である
それで万葉集のぬばたまという表現がふさわしいとなった
万葉集時代にどんな明かりがあったのかとなるからだ、行燈すらない時代だからである
それでぬばたまという表現が生まれたのである、漆黒の闇である

それから我が家を目指して帰った、満天の星がきれいだった、冬の空は澄んでいるから気持ちいいとなる、夜に行くのも景色が変わるから昼に見えないものが見えるのでいい
飯館は日帰りできる、ただ坂がきついのでなかなか行けない、風が吹くと自転車では行けない、今日は風も吹かないし晴天だったから行って見た
トンネルはできても自転車では何の役にもたたなかった
横の道が狭すぎるのである

いづれにしろ家に帰っても誰もいない、それでも何か家族が待っているような気がするのは不思議である、結局それだけ一緒に長くいたせいなのである
六〇年とか子供の時から一緒にいれば人間はその存在が簡単に消えるものではなかったのである

相馬市の道の駅の五本松の二本は枯れて消えたがやはり五本松として地名が残りまだそこには二本の松があるように見えるのと同じである
そこに長くあったものは簡単には消えないのである
ただまだ三本がまだあるから五本松をイメージできる
しかし津波のように根こそぎなくなるともう何もなくなってしまうという恐怖なのであるもう誰も右田の松原を思い出せなくなる、そこには何の面影も残っていないからだ
一本松もないし何も残らないからだ、土盛った高台とか風力発電の風車とかソーラーパネルになったとき思い出しようがなくなっているからだ
そこに津波の恐ろしさがあった、根こそぎあったものが消失させられたからだ



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ユッサのこの庭が貧弱すぎる、枯山水だとしたらもっときれいな砂があったり白い小粒の石でもしきつめるとかあるからだ
狭いこともあるが狭くてももっといい庭が普通の家であるからだ

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2018年12月03日

四人石(詩) (飯館村のまでいな村作りは間違っていなかった しかし原発事故がみんな駄目にした)


四人石(詩)

(飯館村のまでいな村作りは間違っていなかった
しかし原発事故がみんな駄目にした)

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落葉に埋もる四人石

大都会の顔のない
群衆に交じり
その無数の人に疲れぬ
誰でも疲れぬ
その顔に疲弊の色が濃い
山の村の林に
四つの石が落葉に埋もれあり
互いに寄りそいいつまでもあらむ
かなたに稜線の明確に
冬の陽は輝き没らむとす
その鋭い影を心に刻みぬ
ああ 都会に無数の人の群れ
その顔を覚えられることもなし
ただあわただしく消えるのみ
四人石、ここに離れず
記憶を留めぬ
一つ一つの石は異なり
そは長くもあれな
互いに寄りそいつ
ここに留まりて忘れられざるべし
人はみな散り散りになる悲しさ
金の切れ目が縁の切れ目
人はかくして離れて帰らじ
四人石ここに変わらず
長くあるべし
黙しつつも心は通じあう
そは幸いなり
北風は一段と吹き唸るも
ここに変わらず身を寄せ合いぬ
死すともここにあるべし
その場こそ生き死にの場なればなり



何かパラドックス(逆説)があった、双葉町は原子力とともに歩む町として進んだ
結果として住むことすらできなくなった
生業をもどしてくれといってもできない、それは何を意味しているのか?
何が間違っていたのか?

一方飯館村は貧しい村だったけどまでいな村として村作りをしていた
そこはもともと原発とは関係していない地域だった
ただやはり原発で働いていた人はいたのである
原発はそれだけ金になっていたからである

でも飯館村の村作りはまでいな村作りである、までいなとは無駄にしないで物を使うとか生活するとかの意味である、山菜なども利用してまでいな生活をすることである
物を粗末にしないことである、もったいないという言葉とにている
もともとみんなそういう生活をしていた、そうしなければ生活できないからである
外国からなど石油でも入ってこないからエネルギーは炭だとかなっていたから自ずとそうなった

この二つの村は対象的なものとしてあったとなる
しかし原発事故でどちらも崩壊した、双葉は積極的に原発を誘致して町作りしたのだから自業自得だという面があった、だから何か補償金でも限りなく要求することは国民から嫌がられる、原発乞食だとか見られる
それは最初から原発を町の方針として受け入れてそれで町作りして豊かになろうとしたからである

飯館村にはそういうことはなかった、ただ風向きとかその時雨がふったとかで雪がふったとかで条件が悪く最も汚染されてしまったのである
でももともとまでいな村作りしていたし東電からなど補償金をもらっていないだろう
だから飯館村の方針は今になれば正しかった
でも村民でもなんとか豊かになりたいということはあった
だからこそ原発で現金収入を得たいと働いた人がいたのである

ただ原発事故以後は今度は多額な補償金でもめるようになった
できるだけ補償金をもらって村を出る組と残るべきだという組に二に分断された
一つのまでいな村としてまとまることはできなくなった
それは南相馬市でもそうである、補償金のことで分断された

結果的にいづれにしろ飯館村の荒廃はひどい、放射線量が以前として高いのである
だからそこに住めるのかとなり若い世代は出で行きたいとなり帰ったのは15パーセントでありそれも老人が大半だとなりそれは他でも同じである

何か原発とういものが一番打撃を与えたのは不思議に漁業関係とか農業とか林業だったのである、それこそまさに第一次産業でありそれでこれまで生業として成り立っていたものだった、でも高度成長時代になるとその第一次産業は全体の経済活動の一割にも満たなくなっていたのである
そして誰も跡を継がないとかなっていた、グロ-バル化経済でも地方は打撃を受けた
木材は外材になり森の木材を活かせないとか農業でもそうである
そしてもう跡継ぎがいないとかなっていた
今でも農業に従事しているのは65歳以上であり後継ぐものがいないから農業が崩壊して食料危機になるともされている

ともかく何か極端なアンバランスな経済になった、中央と東京と地方の関係でもそうである、日本国土がアンバランスなものとなり歪みが生じたのである
だからこのアンバランスな状態を歪みを元にもどさねばならないということが政策にならねばならない、でもそれも簡単にはできない
それで東南海地震が津波が来ればもう東京でも一極集中だめだとなり地方分散することを決断せざるをえなくなるということを予想する人もいる
なかなか荒料理はそうした大きなことが起きないとできないからである

やはり最初の方針が間違っていたから今日の結果があるともなる
ただ豊かさのみを金になることのみを極端に求めることしかなかった
原発は金の鳴る木であり漁業組合は東電に漁業権を売り渡して贅沢な暮らしをした
事故前補償金で潤い事故後もなんら困ることがないのである
それも矛盾に満ちたものだったのである   
それは漁業だけではない、農業でも林業でもそんなものより金がとなり東電に国家権力の政府に売り渡したのかともなる
そこに価値を見出さなくなっていたからである、そもそも国土というけど東京に住んでいたら土もないのだから意識できない

意識するのはトヨタとか日産とか自動車産業で世界で売ってもうけるということが最優先にされるし政治でもそうなる
だから国土は地は血であり血肉である、そういうものを金のために売り渡したともなる
現実に空気でも土でも水でも森でも汚染されたらもう住めなくなるからである
実際は国土なくしてありえないのだがそういう意識もなくなっていたのである
車を売ることとか電気を生産することの方が最優先されていたのである、それに意義を唱える人などいなかったからである
豊かになるためには金になるのはそれしかないとなっていたからである

私は都会を嫌って田舎で文化を追求してきた、その田舎がこんなふうになるとは予想もできなかった、石が四つ離れずにある、そこに住めることこそ最も最優先することである
その住むことができなくなったらもうすべて終わりだとなる
何がなんでもその場に住めることこそ最優先なのである
それが奪われたときすべての努力は無に帰したとなってしまったのである

だからなにか修復できなくなったこの状態に茫然とする
でばどうしたらいいのかとなると自分にわからないのである
ただ何か無力感がそこに漂うだけになる、なぜなら放射能汚染というのはどうにもならないからである
一旦町でも村でも崩壊すると元に戻すことが至難になるのだとつくづく思った
そこには何もない所から始めるより困難になる
積み木のように一旦壊したらまた同じものを建てるのが嫌になるからである
ただそこに新しいものを違ったものを子供は作ろうとする
それは人間の心理なのである、復旧とは前と同じものにすることでありそれではなく復興は何か前と違ったものに前よりいいものとして復興することである

それができたのは新地町だったのである、駅で書いたが前よりずっと良くなっている、そこはやはり津波の被害だけだから復興できた放射線被害はこれはそのベースとなる土とか水とか森とか空気まで汚染したからどうにもならないものとなった
それに対処する方法がない、ただ花は放射能汚染と関係ないから花栽培はしている
後は奇妙なのだけど老人は山菜を食べているともいう、放射能など関係ないというのもわかる
いづれはガンになるしもう関係ないとなり食べている
でも若い世代が帰らないから復興できないのである

高度成長時代とかグロ-バル経済とか世界的にもゆきづまり次の時代は東京一極時代の転換も言われるようになりそういう転換期に原発事故が起きた、津波も起きた、その時もし原発事故がなかったら飯館村などは貧しくても注目される村になっていた
までいな村とかそれはこれからの人がかえって見本とすべきものでありかえってそれで人が集まるということがあったかもしれない
時代の風潮がありそれに今度は合うものとして村があり移住者すら増えていたかもしれないのである
だから原発事故は本当にあまりにも悲惨なとりかえしのつかないものとして打撃だったと思う
村は補償金で分断されて荒廃した村の土地がある、金があればいいとなるがそれにも大きな負の面がありそれがあからさまにこの辺では現れたのである 

ただこういうことは歴史でも世の中には起きてきた、金の切れ目が縁の切れ目でありそういうことを一身上で嫌というほど経験した
みんな求めるのは金だけでありみんな去った、そして二度と近くにいても合わない、絆とか盛んに言われたがそもそもそんな絆があったのかとなる、結局金の方が大事だったとなる、ここではそういうことが極端な現象となって現れたのである
この世の中でそういうことは日常的に起きているのである、だからつくづくこんな風に町でも村でも崩壊するとなると絆が何であったのかともなるのである、自然の無情、人間の無情、無常を極端なものとして経験したのである
これほど常なきものかということを経験したのである、町や村すら消失するということは想像できなかったからである

ただ冬の空には高原だからやはり一段と星が美しく輝いていたからそういう所は変わらなかった
それは救いだとなる、冬の銀河はその空にかわりなく映えていたのである 


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posted by 老鶯 at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2018年12月04日

南相馬市の仮設は終了取り壊しがすすむ


南相馬市の仮設は終了取り壊しがすすむ

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はる食堂は小高ではじめるという

双葉食堂はいつも満員だから向こうに移れば客も見込める
浪江とか双葉に近くなるからその辺からも客が来るかもしれないからだ
鹿島でも工事関係者の客が仮設ではほとんどだった
地元の人はわずかだったからここではもうやっていけなくなった

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ここにも仮設があったが壊されて大東建託が3棟建つ

向こうの家は建築土木関係の家だという
それだけもうけたから立派な家を建てたともいう

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南相馬市の鹿島区の仮設は終了した、まだ住んでいる人がいるが来年の三月で住めなくなる
それにしてもまた一区画に大東建託が3棟建つ、そこも仮設があった場所である
なんでこんなに大東建託が建つのかと思う
もう20棟以上になる、そんなに借りる人がいるのか?
そんなに需要があるのか?
需要が見込めるから建てている、それはなぜなのか?

大東建託側の事情もある、利益だすとさらにその金を使って新しく増やすのが経営上いいためにそうしている、コンビニでも同じように増やすからだ
でもこんなに建つのはこの辺の特殊な事情のためだろう
外部から入ってきた人たちが多い
鹿島区も多い、新しい街が三つくらいできた感じになる
まるで変ってしまったのである

そして外から来た人と駅とかでも良く会う、それだけ外部から来た人達が住むようになったのである、まず2割くらいは外部から移り住んだ人たちかもしれない
原町区でもあれだけの復興住宅が作られたのだから多い
だから南相馬市の人口は5万とか減ったとしても実際は多いのである
原発事故で移り住んだ人たちは市の人口として数えられていないからである
南相馬市の市民にはなっていないからである、手続きではそうなっている

いづれにしろ震災以後仮設も修了してまた一段落である
鹿島とかは前より良くなったのである
相馬市にあった障害者の学校も大きい、その工事も大きなものにある
それでそれを請け負う建築会社は車を増やすなど大きくなったのである
建築会社は震災以後は大きな工事をつづけてきたから成長してもうけた
これだけの工事があるということはなかなかありえなかったからである

障害者の学校でもそれなりの規模でありこれができるとまた町がにぎやかになる
駅でも利用する人が増える、周りにも影響する、何かしら飲み食いしたり金を使うからである、波及効果がある
障害者というのは何かアサガオでもありそこで働く人も多いのである
良く私は障害者と会うからである、まず障害者の数もここだけではない全国的にも多いと思う、それに費やされる労力も大変なものになる


posted by 老鶯 at 12:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

年寄りの冷や水 (人間はこれまでやってきたことを老人になってもやめられない)


年寄りの冷や水      

(人間はこれまでやってきたことを老人になってもやめられない)

週刊誌ではしょっちゅう死ぬまでセックスとか一面で出している
週刊誌とかテレビは老人向きの番組作りにある
老人が多く老人が読み見るからである
老人社会になっているからである

人間は老人になろうがつくづく今までしてきたことをやめられないのである
死ぬまでセックスとかもそうである
なぜそうなるのか?快楽が忘れられないのである
これも中毒のようなものである

死ぬまで登山とか死ぬまでバイクとか死ぬまで車とか死ぬまで自転車とか死ぬまで・・・・・とかなる
死ぬまで酒飲んで早死にした評論家もいる、これもやめられないのである
自分もそうだった、自転車に乗ってきたからやめられない
電動のロードバイクは合っていなかった、軽くていいのだがふらついて危険だった
だから今度は最新式のE=BIKEが欲しいとなる
それは今までより馬力があり技術進歩がある
やはりロードは危険だかこれなら安定して安全だとなるからだ
私はあまり悪路を走ることはないが歩道を走るので安定性があるのがいいとなる

年寄りの冷や水という言葉の意味は何なのか?
それは今までしていたことをやめられないということで無理をする
今までバイクに乗っていたから74歳でもバイクで飛ばしていた人がいた
登山でも70歳でしていた人が普通にいる
それで遭難したとかある、それから車でやめられない、それで事故を起こしたとか免許を返納して失敗したと80歳の人が言うのもわかる
そして何か今までしていことができると思うのである、だからそれが年寄りの冷や水になる

人間は年をとろうが今までしたことがやめられない、酒が好きな人もやめられない
そういう快感が頭にインプットされているからやめられないのである
麻薬と同じである、人間の業(カルマ)は死なない限り消えることがないのである

結局自分の場合は

死ぬまで自転車だ!

これもどうにもならないのだ、40万近くても欲しいとなる
悪路を行かないにしろこれなら乗ってみたいとかなる
ただ乗ってみてロードのように失敗するかもしれない
でも乗ってみたいとなる

やはり技術革新したものはイノベーションしたものは売れる、老人でも買う
もともとe-bikeは老人が体力がないので作られたのだから合っているのである
70代でもまだ元気な人がいる時代である
だからこういうものでも老人が買うかもしれない、金のことがあるけどどうしても快感を味わいたいとなる
そしてどうせ死も近いんだからやりたいことをやって死んだ方が得だという考えになるのだ、この年になると毎日いつ死ぬのかとなる、現実に死んでいる人も多いからだ

死ぬ前に何をすべきなのか?

それが老人にとっては切迫したものとなる
何か常に死を意識するのである、金があってもそれを使わないで残しても損だとなる
無駄には消費しないにしても何かやりたいことしないで金を使わないのは馬鹿らしいともなるのである

ただ正直老人は動的なものより静的な志向にはなる、私はもともと性質は静的なのでじっとしていることが性にあっている
それで何か深い詩が作れるようなったとも自分ながら感じる
こういうことはほとんど金はかからない、田舎で冬ごもりで風の音とかじっとしている聞いているのがいいのである、そこで沈黙するとき自分は充実感を感じるのである

2018年12月05日

冬の鳩に紅葉、木守柿(平和を感じるこの冬)


冬の鳩に紅葉、木守柿(平和を感じるこの冬)



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我に街に平和もどるや冬の鳩

苦労せし地元の女(ひと)や冬紅葉

老人と駅に語るや冬紅葉

金屏風紅葉の映えて古き壺


赤と黄の紅葉交じりつ映えにしも今日が見ればはや庭に散る

駅前の仕事いそしむ自転車屋今日も見につつ冬に入るかな



鳩というとき平和の象徴である、何か平和がもどった感じになる
それは自分自身も介護とか病気とか惨憺たるものだった
ただ毎日四苦八苦していた、だから余裕がなかった

でもすでに十年が過ぎて何か元の平和がもどったのか?
もう確かに家族は帰ってこない、でもまた自分自身にもここでは我が街でも平和が戻ったのかとなる、ここは避難地区ではなかったからかえって他からの人が増えた
それで駅で良く会うのは外部から来た人たちなのである
それは話しているとすぐわかるからである

それだけ外部からの人が実際は相当増えたということなのだ
原町でも同じである、新地辺りでも増えているのだ
それだけの人が移動して家を建てたりして住んでいるとなる
そして避難区域になった所には帰らないともなっているのである
だからそこには未だに平和ないのである

冬の鳩が駅の上を群れ飛んだ、何かそれが平和を象徴していた
ここでは平和な日がもどったとなる
何か自分自身でも周りでもまるで戦争のような状態だったともなるからだ
家族を失ったことはショックだし色椅子ショックがつづいたが何か平和がもどったという幸福な感じをもった
それは戦争のように焼野原から復興したとき人々も感じた
平和がやってくるんだなとそういう中で感じていたのかもしれない
平和もまたそうして苦しんできたあと一層感じるということがある

ただこの辺は本当に平和が来るのは相当に先の長いものとなる
避難区域はほとんど復興していないからである




タグ:紅葉 木守柿

2018年12月06日

平和と幸福は何もしないで与えられることはない (常に平和と幸福は努力して作り上げてゆかないとない)


平和と幸福は何もしないで与えられることはない

(常に平和と幸福は努力して作り上げてゆかないとない)

平和とはなんだろうと思う、平和平和と叫んでも平和が来るのか?
そもそも平和とは何なのか?
平和の逆を見るといい、極端なのは戦争状態であり飢餓状態とか災害で破壊されたとか事故で苦しむとかいろいろある
平和でない状態は常に歴史的にも個々人でもあった
個々人でも病気とか必ずあるからだ、死もあるし逃れられないのだ

最高にに平和を感じる時は逆に戦争で苦しんでいるとき戦争がないときとかなのである
殺し合いしているのは最悪だからである、だから戦争がない状態にもどったというとき
幸福感を人一倍感じる、それは個々人でも病期が直った時一番感じる
その時生きられんだとかつくづくそれだけで幸福を感じる

平和とか幸福はそこにただあり与えられているものではなかった
何か自分は恵まれていて家族に与えられている存在だった
その家族が介護になり死別がありその時自分は今度は家族のために尽くさねばならなかった、自分が今度は与える側になった
でも何かを与えるということも喜びになる、苦しみもあるが与えることは喜びがともなうただ相手から与えられるだけの存在に平和と幸福はない

平和とか幸福とかはただ与えられるだけでは得られない、人間はそういうふうにできている、何かをただ与えられるだけでは平和も幸福もありえない存在なのだ
幸福になるためにはやはり勉強も必要になる
勉強するということは幸福になるためなのである
ただ受験勉強とはかそうではなかった、勉強するのは人間は才能があったとしても必ず勉強せねばならない、才能を開発しないかぎり天才でない限り生まれないのだ

そして勉強していれば雑学でもなんでも最後に花開くことがある
それも勉強していなかったらありえないのである
ただ何でも努力も勉強もしないで与えられることは人間にはないのである
絵の才能が全然ないのに抽象画でもパソコンのソフトで描けたとなればそれなりにただ見ているよりはそこに自らで作ったという満足感がある
これもやはり才能を開発するという努力の結果で幸福が生まれたとなる

人間という存在はそもそも何か何もしなくて与えられない、平和でも幸福でもそうである家族だってそれも互いに努力するなかで築かれてゆくのであり結婚したときは愛がないというのもわかる、恋愛は愛ではないというのもわかる
愛は結婚して共に生活して子供を育てるという過程を経て家族も作られる
それはただ何もしなくて家族が生まれるわけではなかった
家族はそうして長い間生活してその中で苦労を共にして作られてゆく
家族はもともと与えられるものとも違っていたのである
子供の時は与えられる存在だが大人になれば常に努力して作っていかねば何事成ることはないのである

例えば農業でも何かを実らせるには本当にむずかしい、様々な試行錯誤必要である
そこで練馬大根とか・・・大根とか下仁田葱とか地名がついたブランド品が生まれる
それは特産品となる売れる、それがてきるまでは苦労している
それはどこでもそうである、それで特産品となったときそこに努力の成果がありその土地に幸福をもたらしたのである
それはあらゆる分野でそうである、平和とか幸福は作り出すものでありただ何もしないで与えられるものではなかった

だから復興というときこれもそうなのである、それは不幸な状態でありそこに再び平和と幸福を作ることが要請されている、それでもし復興が成ったらその喜びは何倍もの平和と幸福感を感じる、でも何もしなければもう何も生まれない
ただ荒廃してゆくだけだとなりそこには平和も幸福も生まれないのである
今の所はそうなっている、何か打つ手がないとなり町や村は捨てられたという感じになる
私の住んでいる所は幸いに避難区域でない、かえって外部からの人が集まり増えてにぎやかになったということがある、いろいろな施設も生まれたとかもある
だから避難区域との差が大きすぎるということがある
ただ人間はつくづく何もしなかったら平和も幸福も与えられないようにできている
戦争とは破壊でありだからそこからは平和とか幸福は生まれない
それでも破壊した後に建設がはじまりその時あらためて平和と幸福を感じるのである
それは前より一層平和と幸福を感じる

幸福は何か与えられる得たいということがある、でも人間の幸福は与えることにある
何かを与える時平和と幸福を感じる、神は与えるだけの存在だから幸福だとなる
人間にあらゆるものを与えるのが神だからである
ただ神は人に感謝を求めるが後は一切なにも求めない、人間は何か与えたとてしても必ず見返りを望む、そして恩着せたり俺は与えたからとその何倍を要求する
それは遂に脅迫にすらなる、無償で与える人は一人もいないのである
神は無償で与えている、でもそれを実らせるには人間でも農業に絶えない努力が必要になっているのである

でも一番実りの幸福を感じているのはそうして努力して実らせた人なのである
その時まさに平和と幸福が作り上げられたからである
無人駅でボランティアのまねごとしてもそうである
みんな自動化しているから別に人はいらないとなるがやはり人がそこに手を加えて作り出すものがある、まず機械とかAIだけで平和と幸福は作り出せない
なぜならあくまでも人間が生きるのであり機械とかはAIでも生きるということがないからである、それは人間が生きるということが先にあって活かされるのである
あくまでも人間が生きることであり人間が主人であることには変わりないからである

だから無人駅でも人間はいらないとか他でも機械があるから人間はいらないとはならない必ず人間が必要であり人間が主人公なのである
そもそも機械とAIは何か望むということもない、平和とか幸福とか愛とかも望まない
だから機械だと兵器となり武器と化して人を殺しても何も感じないのである
機械とかはあくまでも人間の道具でしかないのである
だから機械でもAIでも平和とか幸福をもたらすものとは必ずしもならない、それはあくまでも人間の道具だからである、使い方を誤ればやはり不幸をもたらし平和は破壊されるのである

いづれにしろ人間は与えられるだけの存在だと平和も幸福も感じない
それで退職した老人が不幸になりやすいのは何か社会的活動して与えるものがなくなるからである、ただ一日なにすることもなくテレビを見ていたり暇つぶしにギャンブルばかりしていたらそこに幸福は生まれないのである
そういう何も与えない人は膨大に増える時社会自体が不幸になる
それが高齢化の問題だともなっているのである  

人間の信頼関係でも簡単に作れない、俺には金があるからなんでもできる、人も自由に雇い働かせられるとかともならない
家に入れる人は相当に信頼関係がないとできない、金だけではひとを頼むことができないものだった
その人にとって金だけを得ることだとすると危険になるからだ
それじ十年もその家で働いていたとかなると信用できるとなる、でもそれだけの年月が必要であり時間が必要になる
そういうことで金だけで平和とか幸福は得られないのである
それが互いにでも作り上げてゆくものだからそうなっている、研究者に金をやるから一大発明しろといってもできないというときもそうである、研究するのは地道な努力も必要でありいくら金を積んでも一朝一夕にできるものはないからである

ともかく人間の逆説は「悲しむ者は幸いなり」ということもある、なぜ悲しむ人が幸いなのか?
そこに人間の根源的な問いがある、この世は悲しむことなしでありえない、悲しむことによって人間の深いものを理解するからだ
悲しむ者が幸いだという時、悲しむ後に本当の人間の平和と幸福を知るからそうなる
だからこの辺の復興でもそうなのである、悲しむ状態だけだとそこからまた幸いが平和がもどるということがあるということを示ししている、ただそう自覚することはむずかしい、ただ不満だけがあるともなっているのである

タグ:平和と幸福

南相馬市高倉に移り住んだ人が地元の歴史に興味をもつ (詳細に調べているので感心する)


南相馬市高倉に移り住んだ人が地元の歴史に興味をもつ

(詳細に調べているので感心する)

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南相馬市で古い地区となると古代から歴史を継続して刻んできたのは桜古墳と泉官衙(カンガ)跡から高平地区である
古代からそこに歴史が記されてきたからである
泉かんがの前には桜井古墳があるからわかりやすい、そこも高平地区一帯である
そうればとうしてそうなったのか?
その場所が新田川があり海に近く住みやすい場所として最初に開けたとなる

それと製鉄遺跡のある真野郷の遺跡まで道まで作られて管理されていた
新田川も運河になっていて物資が運ばれていた、古代ではそこは湿地帯であり行き来ができないから川を利用した
桜井古墳は立地的に見れば高台であり場所として最適だった
だから今回の津波はそこまで来ていても被害はなかった

最近駅で会った外部から来た人の研究では泉長者から鎌倉時代から南北朝時代までつながりある地帯として調べている
外から来た人でそんなに興味をもてるのも不思議である
地元に住んでいるといつも目にするものがあるからそこで興味をもつようになる
私の場合は墓に興味があり地元の歴史に興味をもった
墓とは文書ではない、何か本当の人間がここに埋もれているとも見るからである

ここまで地元の歴史に興味をもつ人はないだろう、それも詳細に調べている
そういうところが学者的なのである、私の場合は何か芸術的に見るから学者的な研究となっていないことがある
この人は文書からも学者的に詳細に調べて指摘しているからそういう素質があるとなる

例えば南北朝のことで代々の相馬藩主殿様のことで南朝についたものと北朝についたものとして年号に注目している
南朝の年号と北朝の年号が違っていたのである、それは天皇が二人になり日本全国が分裂したからである

足利尊氏は、光厳上皇の院政の下、光明天皇を擁立し、11 月 7 日には建武式目けんむしきもくを定め、幕府の基本方針を示した。
一方、後醍醐は 12 月に京を脱出して吉野へ逃れ、光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、自らが持っているものが本物であると称した。ここに天皇家は、光明天皇の北朝と後醍醐天皇の南朝に分裂し、1392 年(元中 9 年/明徳 3 年)に両王朝が合一するまでの時代を「南北朝時代」と呼ぶ。 

尊氏は条件を容れて南朝に降伏して綸旨を得る。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月7日北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭される。また、年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ(後に足利義満により再度図られた南北朝統一である「明徳の和約」を、正平一統に合わせて「元中一統」と呼ぶことがある。)
年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ

親胤は 建武2(1335)−延元2(1357)で南朝の年号であり
胤頼は 延元2(1357)−貞治6(1367)で貞治は北朝の年号である

相馬藩も南北朝になり二つに分かれたともなる

高平地区にあった寛徳寺に胤平を中心に城が築かれとどまる南朝方で活躍するが1347に北朝方に下る


北畠親房が准后に任じられて17年ぶりに京都に帰還、続いて北朝の光厳・光明・崇光の3人の上皇と皇太子直仁親王を拉致、本拠の賀名生へ移された。後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、
さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へ移した。近江へ逃れた義詮は、近江の佐々木道誉、四国の細川顕氏、美濃の土岐頼康、播磨の赤松氏らに、足利直義派だった山名時氏や斯波高経らの協力も得て布陣を整え、3月15日京都へ戻って奪還、さらに21日には後村上天皇の仮御所のある男山八幡を包囲し、物流を遮断して兵糧攻めにした


石清水八幡宮は、足利将軍家が特に篤く信仰したお宮ですが、同宮は足利氏だけではなく八幡太郎の名で知られる源義家や、鎌倉幕府を開いた源頼朝、それに徳川将軍家など、歴代の源氏一門から、源氏の氏神、武門(弓矢)の神として篤く崇敬されてきました。

鹿島の男山八幡神社はここから由来している、京都に男山という山がありそれが基である

ともかく南北朝の混乱は全国的であり60年続いた、その傷跡は今でも残りつづいているこの辺では霊山炎上で落ち延びた只野氏とかがいて考察した
その子孫がここには本当に多いのである、野馬追いの旗にも南北朝時代の侍の子孫がいて旗印にしているからわかる
野馬追いの旗印は鎌倉時代からさらに古代までさかのぼるからわかりにくいのである

その人は高倉に住んでいる、その高倉の由来はもともとは鷹であり高倉になったという
あそこにある神社の由来を聞いたがわからなかった、その人は明治以降なのか昭和なのか開墾に入った人だったかもしれない
あそこの神社の屋根の紋は9曜の紋だが亀甲紋もあるという、あの神社は綿津見神社である、この綿津見はこの辺だけに使われる文字だという、やたらこの辺ではこの綿津見神社が多いのか謎である

綿津見神社 (小倉南区) - 福岡県北九州市小倉南区石田鎮座
綿津見神社 (古賀市) - 福岡県古賀市庄鎮座
綿津見神社 (東区) - 福岡県福岡市東区三苫鎮座
綿津見神社 (糟屋郡) - 福岡県糟屋郡新宮町湊鎮座
綿津美神社 - 福岡県北九州市小倉北区萩崎町鎮座   

福岡県福岡市東区志賀島の志賀海神社を総本社とする。綿津見三神は阿曇氏の祖神とされ関わりが深い

なぜ福岡県にこの漢字をあてているのか?つまりなんらか九州に関係あるのかとなる
他にもいろいろ当て字しているがこれだけ同じ当て字しているのは関連があるとなる
とにかくこの辺ではこの字をあてた神社が本当に多いのである
それはなぜなのかとなりその関連性を知りたいとなる
神社とは神が勝手に来るのではない、必ず人が来て人がもたらすからである
つまり福岡県と関係してこの神がもたらされたのかともなる
それにしてもこの神社がこれほど多いのはそれだけこの神社に関係した人が多いということである
だから何か因果があると思うのが自然なのである
それがどういう経路でもたらされたのか知りたいとなるがこれもむずかしい
でもこの神社のある場所を特定して地図化してみたら本当に多いから何なのだろうとなる 

長野県にも安曇族とか海人族が入ってきて船の祭りをしていたのを見ている、安曇とは九州から来た海人族だからである、ここにこの字が由来していることはやはりなんらかその由来を語っているのか?

これと対象的なものとして飯館村の佐須にある山津見神社がある、これは綿津見神社と対象的でありこの辺にしかないのかもしれない、インタ-ネットの検索では出てこない
なぜか松川浦付近に山津見という地名がある
これは綿津見神社が多いからそれに刺激されていうとおかしいが山の神としてそう名付けたのかもしれない、綿津見神社があり次に山津見神社が生まれともなるからだ

いづれにしろこの人の指摘していることは要点をついているのである
だから外部から来てここまで地元の歴史に興味をもつというのはめずらしいと思った
地元に住んでいると別に歴史に興味をもたなくても自ずと持つようになる
でも外部から来たらなかなかここまでは興味をもつ人はない、だから不思議だとなる
ただ震災以後は外部から入ってきている人が増えた
鹿島ではおそらく2割くらい外部から入ってきた人たちかもしれない
駅で会うのは外部から来た人達が多いからである




ここで調べた人は名前も知らない、ただそれなりにこれだけ詳細に調べるということはその人の努力があり勝手に紹介できないということがあるかもしれない
その人が発見したものがあるから著作権が生まれる
それで勝手にここにのせていいのかとまどったが一応返答ということでのせた
高平地区は南相馬市の歴史を語る場所であることは間違いない
あの五輪塔がそれを語っているのである


posted by 老鶯 at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)