2006年08月16日

動物と人間の相違(麻薬犬の訓練)−遊びの必要

動物と人間の相違(麻薬犬の訓練)−遊びの必要

テレビで見た麻薬犬の訓練は意外だった。犬が麻薬を探すのは遊びでありゲ−ムだからその遊びが面白くないと麻薬も探さないから遊ばせるように訓練する。麻薬が見つからない場合はわざわざ頼んで麻薬をしかけそれを探し出させて満足感を与える。つまり動物と人間の相違は人間の仕事は遊びではない、そこには様々な意図があり動物のように簡単なものではないのだ。遊びとは無償の行為であり子供が遊びなしで一時もありえないように遊びは動物にも必要不可欠でありその遊びには何か目的があってはだめなのだ。純粋な無償の遊びが目的であり麻薬の発見も犬にとっては遊びなのである。

チンパジ−の実験で彼らにパズルを与えると大喜びしてそれを得ることを待ち、要求する。彼らにとってバズルを解くこと自体が楽しみなのである。しかしある時パズルを解くと食べ物を与えるようにするとチンパンジ−はしだいにパズルそれ自体を楽しむより食べ物を得るためにパズルするようになる。やがてパズルだけを与えて食べ物を与えなくなるとチンパンジ−はパズルへの興味をなくしてしまう。(あなたの隣の狂気−町沢静夫)

人間が犬に有益な仕事させるには遊ばせないとだめだというのも皮肉、逆説である。動物の方が遊ぶということに関してその意図にかなっている。人間は遊ぶでも何か不純な動機が入ってくる。ギャンブルも遊びではない、一攫千金を目的にするとき遊びではない、もうからなければギャンブルに魅力がなくなる。遊びとしてはしないのである。人間は何事その動機が大事になる。学問でも試験の成績のために強要されるといやになる。でもなかなか勉強しないから試験の点数でやらせようとする。学問も遊びが必要なのである。ただ遊びだとすると嫌われる。遊びというときどうしても負のイメ−ジがつきまとう。実業家でもなんでもこの世では金をかせぐ人間がもちあげられ重要人物とされる。

認知症でも公務員とか先生とか事務員とかがなりやすい、右脳を使わない人間はなりやすいという一般的な見方がある。ただこの例外はあり真面目一方の遊びを知らない人間でも90になってもならない人間はならないのだ。認知症は公式として定理のようにありえない、個々によって違っているからむずかしいのだ。つまり誰がなって誰がならないということはわからないのだ。原因そのものがわからないからだ。ただ退職すると環境が変わる、今までの仕事人間としての役割が失う、そして時間は金をかせぐとか何か社会的有用なものではなく遊びとしての時間が与えられることになる。でもこの遊びも簡単にはできないからとまどうのである。犬のように無償の遊びができないからだ。何か有益な餌、金をやらないと遊ばないというのは遊びでないからだ。

例えば趣味として絵を描いたり文章を書いたりすることとプロとして収入を目当てに書くのとは違う、習い事でもそれをプロとして教えると趣味として楽しむのとは違うという、プロとして金をもらうとなるとそれは決まりきったル−ルがあり型がありそういうことを教えるが純粋に楽しむ遊ぶことは別なのだ。スク−ルが余暇からきていることはギリシャ人は良く遊ぶことを知った故に学問芸術が発達したともなる。日本字は生真面目で勤勉が取り柄なのだがそれで世界から嫌われていることもある。一般的に日本人は眼鏡をかけて生真面目で勤勉で遊びをしらない、余裕のない人間にみられるのかもしれない、日本人が自殺が多いのはそのためなのかもしれないのだ。

参考

遊びで堕落した人間−高齢化社会はボケの大量生産?
http://www.musubu.sblo.jp/article/676226.html
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