2006年09月26日

浜街道−新山宿(地図より偲ぶ昔)

gosenya.JPG

http://www.thr.mlit.go.jp/iwaki/rekishi/kou2nd/pdf/kouen0202.pdf#search=%22%E8%AC%9B%E6%BC%94%20%E6%B5%9C%E8%A1%97%E9%81%93%22


新山宿の地図が福島県教育委員会から出ていた。鍋屋とか染物屋、桶屋、医者、荷鞍作り精米屋(馬車引き)髪床、下駄屋、小学校の隣が提灯屋、団子屋となっているのも面白い。そして校庭の隣が水車小屋になっているのだ。その他うどん屋機屋鍛冶屋、豆腐屋がある。これは江戸時代からあったものの継続もある。現実に桶屋とか豆腐屋とか籠屋とかの屋号は生業であり戦後10年くらい存在していた。近くに豆腐屋があり朝早くから豆腐を作っていたし桶屋も籠屋もあり竹を編んで作っていた。提灯屋となるとこれは江戸時代のものだろう。

荷鞍  
馬の背中に取り付けてその取り付けた鞍に木炭や薪などをくくりつけ物を運ぶ
http://www.mco.ne.jp/~sawanoya/sawa/mco/data060507/09%20unpanyo-gu.htm

精米屋(馬車引き)

なぜ精米屋が馬車引きになっているのは米を馬車で運んだからだそうだ。精米屋と馬車引きは一体になっていたのだ。


実際にこれは馬が荷を運んでいた時代があり馬車屋は各地にあったのだ。この辺の近くにもあった。馬が交通を担っていたのはいたるところにある馬頭観音の碑があることでもわかる。下駄屋も下駄を直していたことが記憶にある。その当時燃料は炭だったのだ。インドに行った時は奇妙だった。未だに炭を使っているし川岸では牛の糞を干している。これも貧乏人が燃料に使うのだろう。狭い路地を堂々と牛が歩いている。しかしここはベナレスで都会の聖地だから文明は入ってきている。白黒テレビで子供がゲ−ムしていたりテレビを見ているのだ。アジアの遅れた国で興味深いのは日本の昔がタイムトラベルしたように残っていることに出会う不思議さである。掘っ建て小屋の三文店屋で菓子を買ったら新聞紙の袋に入れてよこした。これは自分の家も三文店屋から始まったから新聞紙で袋を作ってバラ売りをしていたのだ。ノリもご飯粒をつぶして作っていたときがあったのだ。インドでは子供が働いて稼いでいる。私の子供の頃もたいがい農家でも商家でも子供が働かせられていた。子供は遅れた国では未だに労働力としてみられているのだ。世界でも経済活動はにているのだ。

卵が貴重だというのはネパ−ル辺りでは未だにそうである。卵が不足してインドから輸入しているのだ。ネパ−ルの山地では満足に卵も食えていないのだ。では日本ではどうかとなると聞いた話では卵は病人が食うもので普通には食っていない、家族で父親が病人だったその子供は父親が卵が食えたのに子供は何故お父さんだけ卵食うのかと母親に言ったそうである。つまり卵は子供が食いたくても食えなかったのだ。あとは一つの卵を効率的に食うために少しづつかきまぜたものを分かち合ったとかいろいろ工夫している。卵すら満足に食えないことが日本でも普通だったのである。ネパ−ルのポカラでは両親をなくした青年が観光ガイドしてやるとか言っていた。その青年にインドの金は大きいからとくれてやった。ネパ−ルでは最貧国である。あの山の生活では豊かになりえようがないのだ。現金収入は観光客の荷物を山道を上り運ぶことなのである。

そしてなぜこの地図に注目したかというと酒屋の隣に小さく銀行とあった。とすると新山の酒屋は自分の家の暖簾分けされた本店の酒屋だったかもしれない、前にその銀行で私の家のものが子供の頃遊んだ話しを聞いたからだ。長塚駅からこの新山にやってきたのだ。長塚駅は今はない、双葉駅になった。確かにこの地図に描かれている通りで遊んだりしていたのである。他に板橋などあるがこれもまさにその頃は板橋がかかっている粗末なものだった。こういう地図から当時の人間模様などが再現されると非常に興味深いものとなる。これは当時そこに住んでいた人がいてその人から直接聞くと昔が浮かび上がってくる。民俗学とか歴史でも民衆の語りがあってはじめて生きてくるのだ。柳田国男でも宮本常一で民衆の語りから新しい学問を構築したのである。この語りは老人から直接聞くとリアルなものになる。これは認知症の人からも聞くことができるのだ。この地図から明らかに江戸時代まで浮かんでくる。

学問は「なぜ」からはじまる
(なぜ卵も食えなかったのか?)

http://www.musubu.jp/jijimondai26.htm#egg

追記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

地図の中に「五銭屋」とあったが何だろうと思い検索したら

「め組市場」の隣りと斜め向いに食堂があって、それぞれ「五銭屋」「十銭屋」と呼ばれていた。店の名はちゃんとあったのだろうが、店の名を云う人は少なかった。どちらが「五銭屋」でどちらが「十銭屋」か覚えていないが、何でも五銭、十銭の単価で食べさせていたのでその名が付いたと云われている。一説には店同士が張り合って、値段を安くしたのだとも云われた。氷水やアイスクリームなど、私も五銭玉を握って良く食べに行ったものである

http://homepage3.nifty.com/JN7FZE/noboru/kaiwai.htm

これは現代なら百円ショップみたいなものか当時は五銭だった。五円とか十円くらいしか子供はもらえない時があった。飴玉くらいは買えたのである。
posted by 老鶯 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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