2006年05月26日

夏つばめ(認知症への差別、偏見)

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旅行かじ今日も飛びくる夏つばめ

今は旅に行かないが夏つばめが盛んに飛んでくる。旅がテ−マだからこういう句もできる。

遠い親戚の人が特養につとめていた。その人が家に来て施設に入れることで便宜を図るとか相談があった。その時姑も一緒にきたのだがこの人は耳が悪い、耳の機械もつけていないいのでよく聞き取れない、それでいらただしく自分で耳の機械をきりつければとか怒っていた。そしてこの女性は姑と親戚関係にある自分の認知症の家族(K子)に息子ときていたのだがこの病気になってから会いに行きたいと言った時、行くなと息子に言ったそうである。これで疑問に思ったのは認知症の人に差別、偏見をもっていたということがおかしいと思った。最初来たとき姑に接するのに冷たいなと思っていた。老人と関係しているのに老人を毛嫌いししている。それも身内ですらそうなのだ。そもそも家族すら介護できない、めんどうみない人に他人をめんどうみれるわけがない、介護というときこれは楽な介護と苦しい介護があるからいちがいにはいえないできないからといって批判はできない、しかし人間基本的に家族を最低限でもめんどうみれないものに他人をめんどうみることができないしそういう人が特養とか福祉にたずさわるのは向いていない、そういう施設にそういう人がいると入りたくないとなる。施設でも病院でも学校でもそこに不向きな人はいくらでもいるからしょうがないとなるが自分の家族をめんどうみれないものには他人はめんどうみれないことは確かである。ただ介護を仕事にしていた人が自分の親の介護に疲れて殺したという事件があった。両方の介護で疲れたからである。介護とはそれほどたいへんなものだから特養とかで実際介護しているとやさしい心をもって接することもできなくなるということがある。仕事だから金もらえるからやっている人はかなりいるからこれもいちがいに批判はできないのだ。認知症の重度の介護は本当に大変であり世話する人が嫌になりやめる人が多いというのがわかるからだ。

障害者の差別というとき、身体の障害者は自分が障害者だと自ら認識しているから扱いやすい、足が耳が目がわるいということを自ら知っている。だから助けてもらえればありがとうとか言うし他人も対処しやすいのだ。ところが精神的病気は障害者でもあつかいにくい、この病気はまたわかりにくいから偏見とか差別になる。自分でもこうした精神的なもの知能的低下の人を直接に介護して未だにこれはどういうことなんだろうとわからないことがある。つまり正常なのか異常なのかわかりにくいのだ。そして自分自身も身体の障害者のように障害者であることを自覚しているわけではない、何か日常的なことができなくなりそれで何かおかしいと思っても自分が記憶障害だからこうなっていて誰かに頼らねば生きていけなくなったとかは思わないのだ。そしてただただ自己本位になり自分の言い分だけを通そうとする。自分の意にかなわないと暴力や暴言になるから扱いにくいのだ。障害者といってもこの点がかなり違うので扱いにくいどうして接していいかどうしたらいいのかわからなくなるのだ。

ともかく基本的には家族を最低限でもみんどうはれないものと他人もめんどうみることはできない、しかしそういう人が結構多いこともありうる。適正と関係なく金のためにだけつとめる人はいくらでもいるからだ。それも容認されているのが社会である。介護というのは義理とかではなかなかできないだろう。だから最近を妻が夫に油をかけて火をつけて殺したとかの事件があった。これも介護される前に夫婦の関係に問題があったのだ。家族でも嫌なものを介護はできないから日頃家族に尽くしていないと介護のときはむずかしくなる。現実そうなっている人はかなりいるみたいだ。認知症の人には家族の関係とかその人の人生とかいろいろなものが複雑にからみあって人生の最後にボケとなってでてくる。リア王なんかも老人の狂気だったから昔からあった。人間はエゴであるから最後にエゴがむきだしになりそれが狂いになってくるというのも必然なのかもしれない、老人のボケは千差万別であり一括りにはできない、認知症の人の人権を重んじろとか差別するなとか尊厳を守れ同じ人間だとか訴えるのもわかる。ただ認知症も精神の障害だからその対処方法が一様ではありえないむずかしすぎるのだ。身体障害者ならわかってもらえることがおまえは記憶障害者なのだから健常者におとなしく従い、言うことを聞けといっても聞かないのだからどうにもならないのだ。

嫁と姑は姑の力が大きく嫁の力が弱いがだんだん嫁の力が大きくなり認知症になると嫁に従わざるをえなくなる。でもそれがいやなので自分で記憶障害になり自分でなくして忘れているのに嫁が盗ったと騒ぎ自分はなくしていない、自分は何も責任がないとなり暴力までになる。認知症の人には身体障害者のように自分をわきまえることができないのだ。だから説得しても無駄である。自分の心地よいことだけを人にも回りにも求めるだけなのである。がまんというものがなくなってしまうのだ。だから家族だってこういう人は扱いにくいし嫌だとなくことはしかたないことである。ただ家族にこういう人をかかえると差別されたり偏見をもたれるとそういう人の人間性を疑う、嫌悪感を差別された人は持つようになる。どうしてもこうしたことは障害者同士の連帯が必要となってくるのだ。
この記事へのコメント
こんなこというなんてちょっとひどいじゃないか?

今のK子は普通の状態に近くなっている
どんな状態なのか様子くらいみてもなんの苦労もないし迷惑にもならない

施設につとめる人にしてはなぜこういうことを言ったのかわからない、真意はわからないが
やはり施設に働くには不向きな人ではないか?

こういうことは誤解が多いから真意はわからない、でもちょっと傷ついた
Posted by 老鶯 at 2006年05月26日 23:23

差別、偏見問題は当事者にならないとわからないんだよ

それにしてもハンセンシ病(らい病)の家族が家族を差別して捨てたというのはむごい、戸籍からもはずしたとか、この病気にかかった人も受難だった、認知症の家族をかかえた人は懸命にめんどうみている・・・家族がそこまで見捨てたということがむごい、実際は感染もしないし意識は正常だから扱いやすいものだったのに・・・認知症の重度と比べればそうなるんだが・・・・
Posted by 老鶯 at 2006年05月26日 23:31

まあ、差別する人はいつかは差別される人になるのがこの世の運命でありきっちりとそういう運命はめぐりめぐってくる、親を介護しないものは自らも介護されない運命に・・・

人の不運はやがて自分も同じ不運となってふりかかってくることを痛感したよ

介護はだれにでもやってくる不運なのだ・・・
Posted by 老鶯 at 2006年05月26日 23:39
ウチの上司が言う。
やさしい人は辞めて行く。意地の座った人間しか残っていない。
優しさが求められる職場の内情を上手く言い表している。

http://blog.goo.ne.jp/amaamamikann/e/360996e8960c70054771946a6ff7102d

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特養にも認知症の人いるからそういう人と接して嫌になることは確かである。
認知症の人を嫌なのだが生活のためにつづけたということがあるだろう。
かえってそういう人に無感覚になり冷たくあしらうようになる

こういう職場のこともわかりにくい、普通は認知症に理解ある人となるはずだがかえって偏見、差別をもつようになった、意地が座るとは
無感覚になり冷たくなった、こういうところでは虐待とかも起きてくる、特養の実体は姥捨山だとかこういう福祉施設は設備ではなく職員の質に左右される、人間が大事なである。でもそういう人は少ない、かえって嫌気がさしてやめる人が多いことでわかる

Posted by 老鶯 at 2006年05月28日 09:49
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