2006年05月27日

鈴蘭(認知症、ボケはダンテの地獄編か?)

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風唸り小松一本その下に鈴蘭かそか庭の隅に咲く

作家の丹羽文雄も認知症になった。その娘が書いた本をアマゾンの古本で買った。これも一円で送料代350円くらいで買えた。二日くらいで送られてくるから便利だ。この本の買い方もインタ−ネットでキ-ワ-ドで調べていてついでに買っているのだ。だから認知症とか介護関係は数十冊買った。これはなかなかいい本だった。プロの介護士を二人も雇うことができたのだから当然恵まれていた。ただ娘は母親が嫌いで施設に入れた心情がわかる。父親はそれほど心がゆがむことがなかった。

ボケてしまえばそれまで自分を抑制していた理性のタガがはずれ感情のコントロ−ルがままらなくなり生まれぱなしのような裸の自分がでてくるのです。つまり、本性が自分の根底にある「ほんとうの自分」が頭をもたげてきます。これは恐ろしいことだと思いませんか、「本当の自分」が素直でやさしい温かい人柄ならよいのですが、ねたみ、そねみ、ひがみだらけだったとしたら、それが包み隠さずでてきてしまうのです。(父、丹波文雄の介護の日々−本田桂子

これを実際に経験したから一時はショックだった。老人のボケの世界はまさに人間がその最後にその本性をあますことなくあらわれる世界である。それはまさにダンテの地獄編の世界だった。人の思いは隠されていたのだが抑えられていたのだがそれがあらわれる。夫婦でも妻が夫の浮気などを延々と責めつづける。まさに地獄の獄卒のようになってしまう。これは夫にしたら耐えられない世界だろう。そこはまさにねたみ、憎しみ、恨み、・・・こうした人間の心が抑えられずでてくる世界なのだ。そこには絶えず女性なら男に対してのねたみが延々と怨念となってでてくる。女性の凄まじい地獄がでてくる。男は男で様々な欲望が現れてくる。施設ではそういう地獄の住人を介護している介護士の日記を読んで納得した。老女が裸になり男を誘っていたのは水商売の女性だったとかセックスをしようと裸になるのもいる。そういうことが恥じらいもなく平気になってしまう世界なのだ。自分も一時そういう世界にひきこまれて延々と聞かされたから自分自身がおかしくなった。

これとは逆に天国とは清らかな思いがあますことなく現れる世界である。人間の善なる心が現れて愛し合う世界なのだ。しかしこの世で主イエス・キリストのような心をもった人など一人もいない、とすると人の心が隠すことなく現れた世界とは地獄なのである。心は表面的につくろうことができるがボケになるとできなくなるからだ。そこには人間のエゴが欲望が限りなく地獄の釜となって燃え上がっている。自然の美に囲まれたこの世界がこうした人間の地獄になっていることが全く不自然極まりないことなのだ。この世は戦争になっていなくても戦争状態なのである。家族にしても嫁と姑は不倶戴天の敵となり争っているし家族だからといって協力しあうとは限らない、子は親のめんどうを見ず金だけをせしめようとしいるのもありふれている。自分の親に冷たい者はその子からも冷たくされるのは必然である。

この世にいる限りこの地獄のエゴの争いに巻き込まれることをまねがれることはできない、家族自体がすでに嫁と姑の争いのように平和がない世界なのだ。家族自体に平和がなければ外に平和もありえない、平和はそもそもこの世にはないということなのだ。だから地縁とか血縁とか否定した別な聖なる関係に天国があるというのがわかる。家自体が呪われた世界なのだ。だから平和がありえないのだ。

庭の隅に咲いていた鈴蘭を見つけたがこれは自分の庭でも気づかないほどだった。そのように謙虚な存在もある。謙虚さがなくなりエゴがむきだしになるのが認知症、ボケの世界である。しかしあまり謙虚になるのは性格的にニ−トのひきこもりになってしまう。自分がそういう性格だったからだ。ただ神は傲慢な人間を一番憎んでいる。この世の権力を手中にして最も傲慢になった。

しかし彼は心に高ぶり、かたくなになり、傲慢にふるまったので王位から退けられ、その光栄は奪われ、追われて世の人と離れ、その思いは野の獣のようになりその住まいはロバとともにあり牛のように草を食い、・・・・・・ダニエル5-18

ネブガドネザル王のようにされてしまうのだ。認知症の重度の人はまだ介護士がめんどうみているのだから人間がめんどうみているのだから違う。しかしそこにはこれとにた光景があるのだ。絶え間ない暴力、暴言・・・・異常な世界がある。まともな人間が相手できないような悲惨な地獄があるのだ。つまりこの世が地獄に他ならない証明がボケによってあからさまにされるのかもしれない、一方ボケになってもやがて穏やかになって顔も柔和になってゆく人もいるからボケは必ずしもそうした人間の悪しき面だけがでてくるとは限らない、良い面もでてくるということには救いがある。ただ仏様のようにになるとかは嘘だろう。自分本位の自分が満足する世界しか見えなくなる、他人への思いやりがなくなる。一般的にはそうだから仏様のようになりえようがないのだ。しかし老人はもうこの世から離れる死んでゆくんだからあまり過去のことはとやかく言うべきではない、そこに許しが必要なことは確かである。なぜそうなったかというと環境に作用されるし人間の哀れさ弱さはだれにでもあるからあまりその人生を問い詰めることはできないのである。






この記事へのコメント

ダンテの地獄編は権力をほしいままにしたカトリックの僧侶が多かった

地獄に落ちるのは宗教を語る詐欺師が一番多いのかもしれない、宗教自体−ペテンが多すぎるのだ、宗教団体のほとんどそうである。宗教の名のもとに権力を求めるのが多すぎるのだ。そこの内部では熾烈な権力争いがある。そこはなんら世俗とかわりないし最も世俗的なところが今の宗教団体なのである

普通の平凡に暮らしている人は無邪気だから地獄など落ちない、ただこういう人を脅して地獄に落ちるなどと言う人が確実に地獄に落ちているのだ。

Posted by 老鶯 at 2006年05月27日 16:36
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