2006年05月28日

芍薬(日本の認知症の施設には期待できない?)

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我が庭にともに見守る芍薬の蕾ふくらみ花開けるを


NHKの認知症の特番でミノモンタが病院や施設がひどいと言っていた、それで自分のことを考えて外国まで施設を探しているというのは驚きだ。それほど日本の福祉施設病院に失望したのか?施設についてはわかりにくい、特養に勤めている施設の職員自体が認知症に対する差別、偏見の冷たい女性だった。では常識的に考えてありえないことがそんな冷たい態度になりうるのか?

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ウチの上司が言う。
やさしい人は辞めて行く。意地の座った人間しか残っていない。
優しさが求められる職場の内情を上手く言い表している。
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特養にも認知症の人いるからそういう人と接して嫌になることは確かである。認知症の人を嫌なのだが生活のためにつづけたということがあるだろう。
かえってそういう人に無感覚になり冷たくあしらうようになる。意地が座るとは無感覚になり冷たくなった、こういうところでは虐待とかも起きてくる、特養の実体は姥捨山だとかこういう福祉施設は設備ではなく職員の質に左右される、人間が大事なである。でもそういう人は少ない、かえって嫌気がさしてやめる人が多いことでわかる。そういう場所にいて人間嫌いになる、認知症は特にそうである。これは自分でもそうなりうるし家族でもひどいときはそうなった。家族でも嫌になるからだ。認知症が重度になれば手に負いなくなるからその前でなんとかくいとめることが必要なのだ。若年性認知症の場合は無理なみたいだ。

そこで疑問なのはなぜ老人性の認知症であんなに重度になってしまうのか?あんなひどくなる前にくい止められなかったのか、そもそもくい止められず進行してみんなあんなふうになってしまう病気なのか?若年性認知症は進行をとめられないから悲惨である。老人性認知症は補佐する人が覚醒を絶えずうながしていると改善したり病気の進行をとめられるのは確かではないか?一時的錯乱狂乱がおさまっているから自分の家族の場合はそうである。ただこれも実際はこれからどうなるか不明である。一時的によくなったのかもしれないからだ。とにかくこの病気は重度になったら手がつけられない、だからその前でとめることが至上命令でありここで家族とか回りの人や福祉関係の人が力をそそぐことである。自分も重度になったらどうしようと恐怖状態になったから進行をくいとめるために自分なりに努力した。ただ医者とか福祉関係には頼っていない、急なことでできなかったからだ。

実際に認知症の独居の人のケアをした事があるけれど、
最終的にはグループホーム入所だった。
このグループホームが玉石混淆。
ちょっと灰汁強すぎ、こだわり過ぎ発言で引いたけれど、
みのもんたは、母の介護経験から、
もし万一の時に自分の入る場所は今から探しているそうだ。
内情が分かると安心、満足が出来る場所は確かに少ないかもしれない。

かつて私は保育園に勤めていて、我が子は保育園に入れる気がしなかった。
福祉の現場は勤めている人の意識、トップの意識でどうにでも変る。
慢性的人員不足の上に、国の基準すら表面上守っているけれど、
実際は、運営上致し方なく誤魔化している所も少なくはない気がする。

http://blog.goo.ne.jp/amaamamikann/e/360996e8960c70054771946a6ff7102d

福祉の問題のむずかしさは営利事業として営利を追求できないことである。愛とか奉仕の精神とかそうした精神的な面が要求されるとなるとそれは誰でもできることではない、そんなことしたら誰も働く人さえいなくなる。だから家族の愛でみれる以上のことを施設には期待できない、ここに福祉の一番の問題があったのだ。

認知症のような人を介護するのは不毛に感じることがある。子供の成長を楽しみに芍薬の花をともに見守るようならいいのだがやがては訳のわから無惨に死んでゆく姿をみることは耐えられないとなる。ただ福祉では協力ということが大きなテ−マとなるしそこに生きがいを見いだす人もでてくる。そこは熾烈な営利のための競争社会とは違う価値観を追求しているからだ。だから退職した人とか営利と関係なくなる団塊の世代などが向いていることはいえるのだ。
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