2006年06月03日

老鶯(認知症の対処方法は環境を変えないこと)

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老鶯や大地に根付く月日かな

急に朝に頭がくらくらする、おかしい、親戚の人がいい医者を知っているからと言われたとか電話して呼んだ。近くの心療内科でみてもらった。ここでは何分か日にちとか曜日とか簡単な計算とかポ−ルペンとか鍵とか5つくらい品物ををみせてしまいあとで何があったかを聞いたりしていた。それであとは頭のMRIとるからと紹介状をもらい別な大病院に行きMRIの予約をした。

そして帰ってきたら私−−親戚の・・さんに電話したのと忘れているのかトボケているのかわからないような返事をしている。「ここはどこですか」と精神科の先生に聞かれて「病院」と答えたことは病院に行ったことはわかっていた。だがあとで親戚の人を呼んだことも覚えていないし病院のこともよく記憶していなかったのだ。実際は前も不定愁訴で頭が痛いと寝て近くの医者に往診してもらい注射してあとはぐっすり寝たら次の朝は直っていたのである。これもその時々の不調をおおげさに感じた鬱病でもあり実際はたいしたことがなくても悪いと思い不安になり医者に行きたいとなる。それで安心するからである。
いづれにしろ認知症を治療する方法などないのだ。薬を飲んだらかえって悪くなったとかMRIをとって薬で直ったりしない。つまり認知症は薬もきかないし医者もあてにならないのだ。むしろ介護する人の方が大事なのだ。医者ではなく何か不安になるとき回りの人が心配して世話したりすることの方が大事なのだ。医者に行くというのも医者そのものの治療より安心感を与えることの方が効果があるのだ。老人の認知症は病気でない極端な老化の結果だという人もいてこれを病気すること自体間違いだというのも一理ある。病気だとしてもその治療方法はない、親切な回りの介護の方が大事だからだ。それ以外方法がないのだ。

認知症の対処方法で一番いいのはなじみの環境を変えないことである。なぜなら病院に行ってもそこは環境が変わっているし見慣れぬ人が大勢いるからかえって混乱して認知できなくなる。認知症とは人であれ物であれいろいろなことが認知できなくなる病気だからだ。おそらく認知症は老人になれば誰にでもなりうるものである。誰がなり誰がならないというものではない、一般的になりやすいのだ。老人になると若い人のことはわからなくなる、認知できなくなる、浦島太郎のようになってしまう。回りの人がみんな見慣れぬ人になってしまうからだ。認知症の人にとって長くなじんだ家とか回りの風景とか人が大事なのである。それを失うとさらに混乱する、認知できなくなるのだ。だから認知症には環境が変わることが一番よくないとなる。治療もほとんど効果がないのだ。せいぜい気休めくらいにしかならない、認知症の人を病気としないで歳をとればこれはしかたないと共存する寛容さが回りのものに要求されているのだ。それがないと認知症の老人はますます病気とされ隔離されてさらに病気が進行するという結果になりやすいのである。

植物でも樹々でも自然のものは長い間時間をかけて大地に根付く、昔は村の見慣れた風景と人々の中で暮らしていた。だから昔の環境だったら認知症も受け入れられそれほど問題にならず病気のものとして隔離されずに過ごせたかもしれない、なじんだ環境で心安らぐ、変わった環境になると認知できなくなる。見慣れた環境でもここはどこだとか認知できなくなっているのだから見慣れない環境では特にそうなるのだ。

人間はともかく自然の生物界つながり生きているからやはり大地に根付くように生きる。自然物の一つであるからめまぐるしく変わる現代の文明は老人にはすみずらいし認知症を病気として隔離して認知症の人をふやしているのかもしれない、こういう人は病気としても直らないのだから介護とか共存の体制の方が必要なのである。

大地に根付き老鶯のように悠長に歌うことが望まれるのだ。
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