2006年06月12日

見当識障害

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MRIの結果は普通の老人と変わらないという、専門の心療内科ではたぶん、脳血管で血管がつまっているから血流をよくする薬を飲むように言われた。その他はさほど普通の老人と変わりない脳だという。しかしこのMRIの信用できないのは肝心の海馬が写っていないのである。海馬の萎縮とかわからいないのだからこれは脳の精密な写真ではない、脳血管性認知症にしてもアルツハイマ−型とだぶっているものがあるとか明確でもないのだ。結局ここではわからない、症状を見ればはっきり海馬が萎縮したのかどうかわからないにしても極端な記憶障害があるのだから認知症である。でもMRIでも認知症のことはわからないのだ。

車は見当識障害が起こりやすい、認知症で車を運転できること自体不思議である。車自体は長年運転しているから認知症の人でも運転は忘れないのである。しかし見当識障害が起こりやすい、なぜ病院に行ったらしいことは覚えているのだがその場所がわからなくなったしどんな病院だったかもわからない、明確な記憶として意識されなかった。でもこれは自分もそうだった。はじめて行く病院であり車で案内されたから余計わかりにくいのだ。車は通りすぎてしまうから途中が運ばれるからわかりにくくなる。自分が意識していたのは鉄道の線路があったということである。鉄道に沿ったところにあったとは覚えているがこれも確かでなくなる。車で行ったところは見当識障害を起こしやすいのだ。途中で目印になるものを記憶するとそこがどこかあとでわかりやすい、車だと早く通りすぎるからわからなくなる。歩いたり自転車だと途中に何かあるのか意識するからここにこんな店がありホテルがあったとか記憶してその近くだったとか見当をつけるのだ。

普通の人でもこうして見当識障害に陥りやすいとなると認知症の人にとっては余計そうである。家の中とか見慣れたところでも見当識障害を起こすとすると見慣れないところでは余計そうになる。普通の人でもそうなのである。特に込み入った都会は迷路のようになっているからわかりにくいのだ。人でも常に認知障害に陥ってゆく、はじめて会う人を覚えられない、違和感を覚えてしまうのである。見慣れた人、息子、娘さえあんた誰とかなる病気なのだから新しい人は覚えられない、親しくなるの容易でないとなる。現代は認知症の人は極端としても認知症になりやすいのだ。村のような狭い世界が宇宙のように変化のない世界で暮らしていたら認知障害にはなりにくい、いつも見ているものも会っている人も同じ人なのである。現代は会う人もめまぐるしく変わりやすい、都会の雑踏になると誰かわからない人にまぎれるのだから誰も認知しないことになる。現代とは人と人も互いに認知し合わない世界なのである。これが時代がさかのぼればさかのぼるほど戦前でも明治でもさらに江戸時代になると互いに認知しあう度合いが人間同士でも濃密だったのである

認知症は前にも書いたけど医療より介護の方が大事である。老人の医療は体だけみてもだめである。体と精神が相互作用しているからだ。だから何か悪いというときそれを心配する人が回りにいると安心する。心配してくれるんだなと安心するのだ。そういう方が治療効果があるのが老人なのである。薬飲んだからといって簡単に直らない、そもそも老人の病気は直らないのだから介護の方に重点が置かれべきものなのである。老人の不定愁訴もそうだった。老人は心と体が相互に作用してそうなりやすいのである。


コメントスパムをとめる方法がなくなった。トラックバックスパムはとめられた。コメントスパムはとまらないのはなぜだろう。これも困ったことである。どうもかえってプログは詳しいアクセス解析もできないしとにかく毎日100も外国の宣伝リンクがきているから正確なアクセス数がわからない、これが一番困っているのだ。なんとかしようにもできない、それでも「老鶯」とか俳句関係とか認知症関係とかのキ-ワ-ドではきているから俳句短歌とか認知症関係でふえたことはまちがいない、梅雨だから俳句短歌は作りにくい、梅雨の間はちょっと休みになくかもしれん・・・