2006年06月14日

高齢化社会の疑問(長生きはすべて意義あるものなか?)

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真昼間の自由やなかむ夏雲雀

be free at high noon
a summer skylark peaching vitaly


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今日はまたNHKで認知症のドライバ-の問題とか放映していた。教育では8時から認知症のコ-デネ-タ-制というのもなるほどなと思った。施設にあづけてしまうきりではなくて家庭にも戻れる、また施設にも戻ったり行ったり来たりできるなどはいい対処方法である。認知症の人にとって家庭は非常に大事なのだ。一番心安らぐ場所は家庭だからだ。でもその家庭で対応できなくなるから施設に入れてしまう。でもまたコ-デネ-タ-がいて施設と家庭のなかを取り持つのは認知症にはいいことは確かである。また地域というのも大事になる。でも現代社会は認知症の人にはまた高齢者には住みにくいものとなってしまった。その例が認知症の人でも運転免許取り上げられると生活そのものができなくなる。買い物を医者に行くことも通勤すらできなくなる。山村だからもはや交通の便などなくなっている。僻地は認知症などになると対応できなくなり施設に入れる他なくなるというのもわかる。

それにしても認知症の人って事故を起こしてもまるっきり忘れている、事故を起こしても事故を起こした自覚がないとしたら運転はできるとなるのだ。だから免許を強制的にとりあげるほかなくなる。認知症でもこれからの高齢化社会でも車社会など便利になったことがかえって不便なものになる。ス-パ-とか買い物が車でできるときは便利なのだが車が使えないとものすごく不便になる。近くに店がないと高齢者にとっては車が使えなくなれば買い物すらできなくなる。これは山村では深刻なのである。高齢者の問題はこれから様々な分野で拡大して深刻化してくる。医療費にしても生活保護者が寝たきりで一年とか病院に入っていれば大変な金の負担がでてくる。保険にしても国でまかないきれないのだ。寝たきりとか延命治療で生かすのはいいのだがその費用が莫大てものとなってくる。なにしろ数が多いから財政の圧迫が大きすぎるのだ。

人間の生は果たして長く生きることにみんな意味があるものだろうかという疑問がでてくる。前に障害者や高齢者を抹殺する思想は危険だと書いたがそれは少数者であればその思想は成り立つが障害者が弱者が正常者を上回る数になるとまた別問題になる。そこが高齢化社会の大きな問題なのである。正直ただ長生きしてもそれがその本人にとっても社会にとっても有意義にならない、その判定をどうして決めるのか、お前も長生きする資格が有意義に長生きできるのかとなるとその判定はなかなかできない、それは自分が優越者として判定してしまうからである。人さまの長生きするのをおまえはもう生きていても何の意義もないから死んだ方がいいとは誰もいえないしそういう人は傲慢だとなるからだ。

ただ長生きして生活保護であれ保険からであれ膨大な税金を若い者に負担をかけることが大きくなると長寿社会は果たしていいものかどうかわからないのだ。いづれにしろ生命は地球より重いとかすべての人間は平等に作られたからその命の重さも平等だとなるし誰もおまえはただ国の金を使うだけでなんの価値も見いだせないとは誰も言えないのである。その判定も誰もできない、そういう差別をすると優生思想のような危険がでてくる。ただ高齢化社会は少数の障害者と違い社会自体が高齢化社会になってしまうことなのだ。スパルタが戦争のために障害者や弱者を排除したシステムを作ったのは敵に攻められて国が滅びたら終わりだから国の存亡をかけた危機感からそういう社会を作ったのである。いづれにしろ高齢化社会や認知症の問題は社会自体を大きく左右するものであることは確かなのである。高齢化社会は過去にないものでありその意義も是非もまだ問われていない新しい問題なのである。