2006年06月29日

姥柳(認知症と家の関係)


頼りなる夕風涼し姥柳

燕の子育ちし跡に糞一山

あどけなく風にゆれたる立葵


認知症の原因は謎だが役割喪失が原因の一つである。社会のなかでも家のなかでも役割とか責任とかなくなり生きがい喪失が起きてボケてくる。その証拠に家では嫁と姑の争いがあり現代では嫁の方が力が強くなっている。すると姑は家での役割がなくなり張り合いもなくなりボケてくる。男は退職すると同じように役割がなくなりぼけやすい、だから会社を退職してもボケると会社に行くとかなる。92歳でもやはり頼りにされれば家での役割をもっていればボケにくいとなる。現代は家の機能が昔のような大家族で生産母体となり大地とも一体となったような家はなくなった。核家族とか家族が単体化して資本主義経済のなかでは労働力として供給される単位となった。前は家内工業とかがあり農家でも大家族のような会社となっていたのだ。会社自体が社に会すという意味のようにその土地に根ざした地域社会を意味していたのだ。

認知症とは何なのか、原因はあまりにも謎めいている。ただ体の病気なら家族がどうだ、社会がどうだなどと関係ない、脳血管がつまっているなら脳の血流を良くすればいいとなると体の問題であり家族とか社会がどうだとか関係ないのである。それがなぜボケの問題が家族とか社会の問題になるのだろうか?明らかなことは原因はわからないにしてもボケになったあとの対処方法は家族とか地域とか社会的問題など総合的に対処する必要がでてくる問題なのだ。女性は家族の中で一体となり家が血肉となって生活してきた。だからその家から離されると自分のアイディンティティがわからなくなる。認知症になるともともと相手のことも自分のこともわからなくなる病気なのだからますます自分が何者かさえわからなくなり混乱してくる。ところが家にいれば家族といれば地域にいればそこはもともとなじんだ長く生活した場だから一時期認知できない混乱状態になってもだんだんわかってくることがありうる。

家の是非はともかく家は必ずしも血縁で結ばれなくても共同体としてある。それから重要なのは家は必ず少なくても二代はつづいているから歴史的共同体なのである。この歴史的共同体ということがかなり大事なのである。少なくとも家は二代つづくとすれば百年以上の歴史をもっている。その長い歴史の中で受け継ぐものがあり歴史の中に生きるのである。これが国の歴史となると千年以上とかつづくのだから歴史が重要になる。天皇が現代にも生きていることは万葉時代にまで歴史をさかのぼりそれが戦争にもなったということになる。天皇が日本の家長のように生き続けたからこそいい悪いにしろ日本人のアイディンティティが保たれ御国のために死ぬまでの力をもったのである。家は歴史的具体的存在でありなぜ家にこだわるのか、認知症になると奇妙なのはこの家は俺のものだ、俺が働いて建てたとか嫁に追いやられ役割をなくした姑が責めるしひどくなると暴力になるのだ。女性は家に固執する鬼となり呪縛霊となるのは確かである。反面家での存在感があれば認知症になっても癒されるという面がある。自分の存在価値が存在基盤がアイディンティティが家にあるから家族にあるからそうなる。

つばめの子はいつのまにか騒いでいたと思ったら巣立ってしまった。そのあとに残されたのが糞の山だった。それをかたづけた。人間も死んで残すのは何なのか、あとにゴミの山だった。介護では糞の処理が仕事だとか人間も糞の山を残して死ぬのか、人間もあまり長生きすると無駄な面、糞ばかり残すことになりかねない、その糞の処理に追われる介護の仕事も社会的にあまり生産的ではないのだ。親の介護のために結婚できない女性がいたり介護の負担は若い人の未来まで奪うことにもなる。介護の負担を若者に負わせるのは問題である。確かにそこから得られものはあるのだが若者にもっと未来にかかわる仕事をするべきだ。

やっぱりアクセス数は百以上はあった。外国からのリンクのアクセスがないのでわかった。それなりに読まれているみたいだ。コメントできるようにしたので認知症関係の人がコメントしてもらい情報の拡大化したい、でも一回もコメントはない、結局プログはスパムの問題とか自分で自分仕様に作れないのが弱点であった。ただあるテ−マ−認知症などでシリ−ズとして書くのには便利だった。認知症関係ではかなり情報を集めて考察できたのである。
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